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安土桃山時代 - [1573年 ~ 1603年]

織田信長は天下統一の目前で家臣の裏切りにより死去する。
その後、豊臣秀吉が天下統一を果たす。豊臣秀吉は朝鮮に出兵をするが病死して撤退する。
豊臣秀吉の亡き後の天下分け目の戦いでは徳川家康が勝利する。
この時代の文化は桃山建築(安土城大阪城姫路城など)、襖絵・屏風(洛中洛外図屏風唐獅子図屏風 - 狩野永徳など)、茶の湯(千利休)などを桃山文化という。

1575
織田信長徳川家康連合軍と武田勝頼との戦い。織田信長鉄砲による戦術で圧勝する。
1576
織田信長安土城を築城する
1577
織田信長楽市楽座を定める
1578
上杉謙信が病死する
1570年後半~
中部・近畿地方をほぼ支配した織田信長は天下統一を目指して中国地方は羽柴秀吉・山陰地方は明智光秀・北陸は柴田勝家・関東は滝川一益・四国討伐計画と勢力拡大に励んだ。
1582-02
1582-06
本能寺の変 - 織田信長が家臣の明智光秀に殺害される
1582-06-13
1582-06-27
織田信長の後継者が織田秀信(織田信長の孫)となり後見人が羽柴秀吉となる。羽柴秀吉の台頭。
1582-1590
キリシタン大名大友宗麟大村純忠有馬晴信が少年使節をローマに送る。
1582-1598
羽柴秀吉が行った検地度量衡(どりょうこう - 単位)を統一して検地帳に米の収穫予想を石高(こくだか)として記録した。石高の単位は石となり「1石 = 約1000合 = 1人が1年間に食べる量(1食1合x3食x365日)」。
これにより奈良時代より続いた荘園制度は完全に崩壊した。
1583
羽柴秀吉柴田勝家の戦い。柴田勝家の滅亡。
羽柴秀吉石山本願寺の跡に大阪城を築城する
1584
羽柴秀吉織田信雄徳川家康との戦い。和睦。
1585
四国平定 - 羽柴秀吉が四国を平定する(長宗我部元親が降伏)
羽柴秀吉関白となる
惣無事令(そうぶじれい) - 羽柴秀吉が大名間の戦いを禁止
1585-12
羽柴秀吉太政大臣となり豊臣姓を賜る。
1586-04
豊臣秀吉の妹:朝日姫徳川家康正室となる。更に豊臣秀吉の母:大政所(おおまんどころ)徳川家康に送る。これにより徳川家康豊臣秀吉に臣従する。
1587
九州平定 - 豊臣秀吉が九州を平定する(島津義久が降伏)
1588
刀狩令 - 豊臣秀吉百姓の武具を没収・禁止とする
1590
豊臣秀吉が全国を統一する
東北平定 - 伊達政宗ら東北の諸大名が豊臣秀吉に降伏
1591
身分統制令 - 武家奉公人百姓の転業の禁止
1592
人掃令(ひとばらいれい) - 全国の戸口調査
1592-1593
豊臣秀吉が朝鮮へ出兵する。日本と李氏朝鮮の戦い。日本軍は朝鮮の首都:漢城を占拠して加藤清正が王子二人を捕虜にした。快進撃を続けたが軍により食料倉庫を狙われ和議交渉を進める。
1596
1597-1598
再び、豊臣秀吉が朝鮮へ出兵する。軍の影響で日本軍は苦戦する。戦争中に豊臣秀吉が病死して日本軍は撤退する。
16世紀末~
朱印船貿易 - 朱印状を使用した朱印船での貿易
1600
東軍(徳川家康)と西軍(豊臣家:石田三成)の天下分け目の戦い。

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